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大阪地方裁判所 昭和38年(わ)5034号 判決

被告人 中雄昌弘

昭一九・三・一七生 無職

出口勝彦

昭三・二・二二生 会社員

主文

被告人中雄昌弘を懲役三年に、被告人出口勝彦を懲役二年に処する。

未決勾留日数中被告人中雄昌弘に対しては三五〇日を、被告人出口勝彦に対しては一二〇日を右各本刑に算入する。

押収してある短刀一振(昭和三九年押第二一六号の一)はこれを被告人中雄昌弘より没収する。

理由

(被告人両名の経歴及び本件犯行に至るまでの経緯)

一、被告人中雄昌弘は、西宮市甲子園口一六四番地において、父博と同人の後妻である母サカエとの間に次男として生れ、腹ちがいの長兄姉とともに育てられたが、複雑な家族構成を反映して家庭内が冷たく、また一〇才のとき父が病死し、母も肺結核にかかつたため長崎県の母の実家に預けられ、翌年同家を無断でとび出して大阪市東淀川区東三国町三丁目二六九番地の母の許に戻るなど恵まれない家庭環境に生立ち、同地の中学を卒業後同市内の鉄工所、飲食店、電気工事店、魔法瓶製造会社などに勤めたが、いずれも長続きせずに転々と職をかえ、その間昭和三六年一二月一五日強盗恐喝などの非行により大阪家庭裁判所において保護観察の決定をうけ、昭和三七年八月頃から冷暖房工事下請業玉井組の人夫として名古屋市内や長野市内で飯場生活を送つたのち、昭和三八年一月二〇日頃、右翼団体を標榜する護国団(その後大日本護国団さらに関西護国団と改称)尼崎支部(支部長包国春雄、以下たんに尼崎支部と略称する)団員竹内次郎こと浜田邦男を知り、いわゆる極道(やくざ)として同人の身内になるつもりで、尼崎市戸ノ内中割六九八番地(神崎新地内)の同人方に身を寄せ、同年二月頃同人を介して尼崎支部に入団し、同市戸ノ内島開七八二番地の支部事務所において掃除お茶汲等の雑用や宿直をし、また支部長の指示する右翼活動関係新聞記事の切抜帳を作つたりしていたものである。

二、被告人出口勝彦は、肩書本籍地において古河電工に勤務していた父吉松の三男として生れ、大阪府立淀川工業専門学校電気科卒業後大阪市西淀川区御幣中島の平和プレス工作所に工員として勤務したが、三年で退職し、尼崎市内の電気工事店を電気工として転々したのち、昭和二七年頃淀川工専時代の同級生と共同して電気器具販売業をはじめたが失敗し、昭和三〇年暮頃から尼崎市の神崎新地で貸席業を営むうち売春防止法が施行されたので廃業し、ついで大阪市北区梅田附近でバーを営んでこれも失敗したのち、神崎新地でいわゆるヤミタク(個人タクシーの無免許営業)をはじめた昭和三四年夏頃知人の護国団員坂根徳から護国団への加入をすすめられ、同団の主義主張に共鳴して同団兵庫県本部包国隊に入り、同年九月頃尼崎支部が結成されたとき同支部の書記長となつたものである。

三、尼崎支部は被告人中雄が入団した頃から右翼活動が低調となり、これとは逆に極道の色合いが濃くなつてゆき、その傾向は、もともと極道の気分が強い前記浜田邦男が昭和三八年九月二一日頃刑務所を出所したのち包国支部長の意向をうけて被告人出口にかわり支部事務所をきりもりするようになつてから支配的となつたが、右翼の看板を掲げながら団員が極道のように振舞うところから、二足のわらじをはくものとして他の極道団体の反感を買い、ついに同年一一月四日頃、支部事務所が極道団体の中川組の者から荒され、居合せた包国支部長の弟が暴行を受けたうえ前記浜田邦男とともに拉致されるという事件が起つた。尼崎支部はこれに対し報復手段をとる実力がなく中川組と話し合いで事を収めたが、事件を目撃した被告人中雄は、右翼活動がふるわないうえ、極道団体としても無力な支部の実状を無念に思い、自分が犠牲となつて中川組に仕返しをしたいという気持にかられていたところ、その頃支部事務所を訪れた右翼団体日本堅牢会々長の話から池田首相が衆議院議員選挙の応援のため同月一四日に来阪することを知り、すでに話がついた以上中川組に対して直接仕返しは出来ないが、来阪する池田首相に対してテロ行為に出れば尼崎支部が政治団体であることを世間に明らかにするとともにその名声を高め、それによつて、支部の勢力をばん回し、中川組その他の極道団体を見返すことができるし、また自分が護国団から受けたいわゆる一宿一飯の恩義にむくいることにもなると考えた。

そこで被告人中雄は、池田首相が空路来阪することを予想し、空港においてテロ行為を出る計画のもとに、その方法として、カメラマンに扮し、同年一〇月中旬頃神崎新地のタクシー運転手より貰い受け整刃しておいた刃渡り約二三糎の短刀(昭和三九年押第二一六号の一)をカメラの三脚ケースにしのばせて池田首相に接近しようと思いつき、同年一一月九日午後一〇時頃、被告人出口方に三脚ケースを借りに行つたが、その際同被告人からそれらの用途をきかれて池田首相に対するテロ計画を打明けた。その翌一〇日大阪市東淀川区西三国町所在阪急三国駅附近を歩いていたときたまたま「日本共産党政談演説会野坂参三議長来たる」の立看板を認め、同月一三日午後七時より大阪市十三東之町四丁目一二番地大阪市立十三小学校で行われる右演説会において同党中央委員会議長野坂参三が演説することを知つたので、池田か野坂のどちらかをテロの相手にしようと考え、前夜テロ計画に賛同してくれた被告人出口の意見をきくため午後一〇時頃再び同被告人方を訪れた。しかし同被告人からどちらがよいという意見をきくことはできなかつたが、野坂参三は日本共産党の党首であるときき、また池田首相が伊丹空港に来る時刻を時刻表で調べてもらつたりしたものの結局池田首相のばあいは来阪の方法や時刻がはつきりしないうえ福島県郡山市で暴漢に襲われたばかりなので厳重な警戒が予想されたところから、前記日時場所における演説の機会をとらえて野坂参三を前記短刀で刺し、刺しどころによつては同人を殺害してもやむを得ないと決意し、この決意を被告人出口に告げた。

(罪となるべき事実)

第一、被告人出口は、尼崎支部団員の殆どがたんなる極道にすぎないなかで、比較的右翼の理論に関心をもち、もつぱら右翼活動を続けてきていたので、同支部が極道団体化したことに失望し、前記浜田邦男がきりもりしだした支部事務所から遠ざかり、同年一〇月頃から自動車会社に修理工として勤めていたところ、前記のようにカメラの三脚ケースを借りに来た被告人中雄から池田首相襲撃の決意を打明けられ、はじめは右翼に関して殆どなにも知らない同被告人がいきなりそのようなことを言いだしたことに反感さえもつたがその後「いま右翼テロを敢行すれば尼崎支部が看板どおり右翼団体であることを世間にしめし、同支部としても右翼団体本来の姿に戻ることができ、そうなれば他の極道団体からとやかく言われることもなくなるのではないかという同被告人の意見に賛同し、さらにその翌日の同年一一月一〇日午後一〇時頃再び来訪した同被告人から前記のように計画をかえて、野坂参三を前記日時場所において襲撃することにしたとの決意を告げられるや、かねて日本共産党が中ソ一辺倒で右翼の標榜する日本民族古来の天皇中心の政治に反対し、集団の力をもつて法を破壊するものであると考えていたところから、同党の党首である野坂参三こそ願つてもないテロの対象であると内心喜ぶとともに同被告人が売名的な動機のみで果して行動をおこしうるかどうか不安を感じ、井上日召のいわゆる「一人一殺」「一殺多生」の右翼精神を体してテロを遂行してもらいたいという気持から同被告人に対し、来島恒喜の大隈重信に対する爆弾投擲事件や山口二矢の浅沼稲次郎刺殺事件等過去における右翼テロの事例をあげて先人の心境や右翼テロの心構えを説いて激励し、さらに、同被告人の行動によつて護国団に迷惑をかけないよう尼崎支部宛に退団願を出すことを勧め、「決心がついた以上は団を早めに出ておいた方がよい」「野坂の演説はどうせ最後だ、野坂が来るときは様子でわかるだろう、早くから会場に行くと怪しまれ見つかることが多いから野坂が来たのを確かめて入れ」また同被告人からテロのときハンカチに日の丸を書いて身につけようと思うから赤のマジツクインキを貸してくれと頼まれて「そんなことをしなくても支部事務所にある日章旗を腹に巻いて行け」などと助言し、「警察に捕まつたあとのことなどを心配していて何ができるか」と論じ、同被告人に頼まれて退団願とテロの目的を明らかにする誓文いわゆる斬奸状の案文を書いてやり、翌一一日午後一〇時頃、来訪した同被告人が万一予定通りのテロ行為に出られない場合に、いつたん無断で退団した以上再び団には戻れないことを心配するので「もしお前が団に戻りたいと思うのならいつでもいいからわしの勤めている会社に電話してこい、わしから事情を話して次郎(前記竹内次郎)こと浜田邦男に詫を入れてやるから次郎からおやじ(支部長)に詫を入れてもらえ、そんなに心配することはない」と安心させ、以上の激励助言等によつて被告人中雄の左記第二、一記載の犯行の決意を強化させ、もつて同被告人の右犯行を容易ならしめてこれを幇助し、

第二、被告人中雄は、

一、かくて右激励助言等により野坂参三襲撃の決意を固め、同月一一日支部事務所近くの旅館の女将に自己が検挙された場合差入れてもらう下着等と一緒に退団願(昭和三九年押第二一六号の八)を預け、同月一五日夕方までに帰つてこなければ包国支部長に届けてくれるよう依頼し、翌一二日止宿先の浜田邦男方を出て同夜は前記十三小学校近くの旅館に泊り、翌一三日午後八時頃、前記短刀を腹巻に差し、誓文(同押号の二)をはさんだ日章旗(同押号の三)を腹巻の間に巻き、犯行に着手する場合直ちに短刀が抜けるようにワイシヤツの第三、第四ボタンをはずしておくなど犯行の準備を整え、通勤途上のサラリーマンにみせかけて自己の行動を目立たないようにするため大型封筒(同押号の五)に入れた週刊紙等(同押号の六、七)を携えて十三小学校講堂の日本共産党政談演説会々場に赴き、同会場の舞台演壇の殆ど真下にあたる聴衆席最前列中央やゝ左寄りの莚席に坐り、午後九時一五分頃、野坂が演壇につき演説を開始するや、やにわに右手で所携の前記短刀を抜き放ちながら立ち上り、刺しどころによつては同人を殺害してもやむを得ないとの意思のもとに、同人めがけて突進し舞台に飛び上ろうとしたが、附近の聴衆に取り押えられたため殺害するに至らず、

二、法定の除外事由がないにもかかわらず、同一三日午後九時一五分頃、前記十三小学校講堂内において前記短刀一振を所持したものである。

(証拠の標目)(略)

(被告人出口について共謀共同正犯を否定して幇助を認定した理由)

本件公訴事実によれば、被告人両名は共謀共同正犯として野坂参三に対する殺人未遂の犯行を遂行したというのであるが、当裁判所は、前掲各証拠によつて前示のように被告人出口の行為は被告人中雄の殺人未遂の犯行を幇助したものと認定した。

共謀共同正犯において、実行々為に加担しない共謀者が共同正犯の責任を負う所以は、二人以上の者が共同意思の下に一体となつて互に相手の行為を利用し、各自の犯意を実行に移すことを内容とする謀議をなし、その謀議にもとづいて共謀者の一部が犯罪を実行するところにある。これを本件の場合についてみると、前掲各証拠によれば、本件テロ行為は大勢の聴衆の面前で警備の網をくぐつて遂行されるものであるのに現場での襲撃の具体的方法に関して被告人両名が共同して検討した形跡がないのみならず、被告人出口はそのことについて被告人中雄に確かめてもいない。また同被告人が使う兇器についても刃物であることを推察しているのみで見せてもらつていないし説明もきいていない。ただ犯行の方法に関連するものとして、同被告人に対し「早くから会場に行くと怪しまれることが多いから野坂が来たのを確かめて入れ」と教えているが、その内容は一般論にすぎず(具体性がないから同被告人はそのとおりにしてない)、この程度の意見をとらえてただちに共同して犯罪を実行するための謀議を遂げたものと見ることはできない。そのほか前示のような被告人中雄との話合いの経緯内容等をあわせ考えてみても被告人出口において右犯行を被告人中雄と共同するという意識があつたとは認められず、他方被告人中雄においてもテロ計画を決行するか否かについて被告人出口の意向に拘束されるとか、共同犯行の認識の下に行動したことを認めるに足る証拠もない。

なお被告人出口は、尼崎支部の書記長であるが同支部組織のやくざ的実態からして浜田邦男の直系の身内である被告人中雄に対し浜田邦男をさしおいて指示命令し同被告人の行為を支配し得る立場になかつたことが認められる。してみると判示のような被告人出口の同中雄に対する激励、助言、教示等の行為はいずれも同被告人の犯意を強化し、以て同被告人の犯行を幇助したにすぎず謀議に基く共同正犯ではないと認定せざるを得ない。

(法令の適用)

被告人中雄の判示所為中第二の一の殺人未遂の点は刑法二〇三条一九九条に、第二の二の短刀所持の点は銃砲刀剣類等所持取締法三条一項三一条一号罰金等臨時措置法二条一項に該当するところ、殺人未遂の罪については所定刑中有期懲役刑を、銃砲刀剣類等所持取締法違反の罪については所定刑中懲役刑をそれぞれ選択し、以上は刑法四五条前段の併合罪であるから同法四七条本文一〇条により重い殺人未遂の罪の刑に同法四七条但書の制限に従つて法定の加重をした刑期範囲内で同被告人を懲役三年に処し、

被告人出口の判示所為は刑法二〇三条一九九条六二条一項に該当するところ、所定刑中有期懲役刑を選択し、同法六三条六八条三号により法定の減軽をした刑期範囲内で同被告人を懲役二年に処し、

被告人両名に対し、刑法二一条により主文第二項掲記のとおり未決勾留日数の一部を各本刑に算入し、押収してある短刀一振(昭和三九年押第二一六号の一)は、本件殺人未遂の犯行に供し、かつ銃砲刀剣類等所持取締法違反の犯行を組成したものであつて犯人以外の者に属さないから刑法一九条一項一号二号二項本文によりこれを被告人中雄から没収する。

よつて主文のとおり判決する。

(裁判官 吉益清 石川正夫 梶田英雄)

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